毎年の年賀状。
ビジネスもなく、恩も縁も薄い相手からの頼みもしない家族の近況写真。
「いや、関係ないし、興味もないし。」
マナーとしてのあいさつなら、相手のことを考えるべきじゃないかしら。
凡庸な報告なら不要。便りが無いのが元気な証拠。 年始早々自戒させられる。
手を変え品を変え、次の10年にむけた年始のあいさつ。
毎年書いていているが、我ながら「ヘー」と思う。
経営層のフワフワ感
をいかになくすか。は重要だ。 夢と行動計画はワンセット。
ノー モア ワーキング プア。
昨年は遊んだ。今年はちょっとは働くぞ。
昨年11月頭に四十路となり、また逃げるように四国一周~呉で本州に渡るドライブをした。
四万十川の河口、中村市にある赤鉄橋。夜は情緒がある。
気になったのが、 「道の駅」 の多さだ。
「田舎ってこんなオシャレなわけ?」
昼食をとるにしても、その制服にしても、道の駅だけあか抜けている。
建築しかり、内装しかり。
昨年のお歳暮キットの段取りを依頼した、道の駅 とおわ。
オペレーションは地元の優れた企業、スタッフがやっている。
予算消化主義の行政が創るプラットフォームに、地元の店、人、作物を都会の感覚で入れ込む。
おそらく、コンサル会社とかがプランニングするんだろう。 変なブランド化、画一化を感じる。
すると、失われるのは、「田舎らしさ」だ。
「都会ではこうだ、ああやってる。これが受けるんだ。」
と。
田舎において成金ブランドショップはあり得ない。
でも、、
「かしこまりました。」「承知しました。」
と。 ソフト=人間によるオペレーションはマニュアルで変えれる。
居心地が悪い。ここって田舎だよね?
「ハイヨ~」
「やってないねん!ごめんな~。」
でいいじゃないか。
バカな観光客がまた匿名でネットに書き込むんだろう。態度がいけてない。とか。
どーでもよくねが?
今の日本は団塊世代が作った。文化がちょっとずつフランクになっている息吹は感じるが、リタイアした彼らが過ごすには、画一的でないといけない。年賀状みたいで気持ち悪い。
「ほら、道の駅でモノ(お土産)もコト(食事など経験)も、な~んでも一括で揃うよ。便利でしょ?」
と、導かれるようで変な感じだ。
効率的だが、画一的。
個人運用の限界を超える何かが不自然。
もちろん、雇用も創出しているし、一定の貢献はあるんだろう。
田舎は田舎らしく。は、ごう慢なのかもしれない。
最後の清流。 らしいけど、いまいちピンと来なかった。
曇りの侘びかしら。 「黒尊川」とかまでいかないとダメだったかな。でも、運転めんどいし。
はっきり言って・・・
田舎で評判のメシを食べても、味だけをとると都会の店にはかなわない。
味覚は、嗅覚や視覚とあいまって感じられるんだ。
四万十川沿いで天然のウナギとやらを食べたが、味自体は「?」だった。
※大阪ではウナギはココが抜群にウマイ。
紹興酒が中国大陸だからうまいのは、街に中華のスパイスの香りがあるから。
日本で寿司がうまいのは、その清廉な雰囲気もあるのだろう。
土地には香りがある。
それが田舎であれ、街であれ。
香りが無い土地は不気味だ。
田舎が、故郷を捨てた都会人のように気取る必要は無い。
生まれた里を大事にするステキな感性、価値観は勇気がいることだ。
虚構に虚栄心を満たす都会人よりよっぽどステキだ。
問題はそうやって、「田舎が都会人へのスリ寄り」をしてる体でお膳立てをしないと、人が向かない、ということだ。
都会、企業社会には本当の価値があるのか?
人生を削って働いて、競争して、何があるんだ?
もっと休んで、ゆっくり田舎を楽しもうよ。
とすれば、税金を使ってまで田舎で楽める環境をつくる強制はないんじゃないだろうか。
年始そうそう文句を書いたが、佐田岬つけねの三崎港のえびすやはオススメだ。
佐田岬では魚は一本釣りらしい。型のいい魚が安くうまい。