というキーワードだけふと思い出した。
平日の夕方から、知人とその子供を連れてUSJに行った。
当たり前だが家族ばかり。普段の都市生活ではそれらを視界に入らないようにしているのだが、40も超えると泣き声アレルギーも収まり父親の真似事をしてみる。
カラーバス効果でファミリーに目が行く。
社会全体で、
「子を持たない成人」
はマイノリティ。 テーマパークでは圧倒的にマイノリティだ。
視点を変えると、
「子を持たない親が、親気分になれる」
ところなのかもしれない。
母親を待つ間、女子高生から連れた2歳児、4歳児に「かわいい~」と声をかけられる。
が、リアクションがわからず変質者と間違えられるのが怖くて
「他人の子を預かっている。」
と、母親が早く帰ってこないかとそぞろになる。
ここは、カイシャ、仕事という普段のステージとは違う、まさに 「テーマパーク」
楽しみ方、楽しませ方、おのおののステージがある。
父親の尊厳 / 自信
両親の責任 / 負担
をあらためて知った。
カイシャで成果を、プライベートで愛と笑顔を。
とてもじゃないが両方できない。バランスの問題だろう。
「フクタさんは子供だよね」
とよく言われる。
「子」 の対義語が、「親」だとしたら、私はこのまま一生「子供」のままだ。
「子」 はいけないことなのか?
「評価」、「能力」 もあろうが、「適性」 「選択」 という結果でもある。
アトラクションのアイディアや仕組み、働くクルーのテンションやリアクションに素直に感嘆する。
パレードのアップテンポなビートとノリが、すれた大人すら笑顔にさせる。
知人の、母親としての笑顔、子の素直さがまぶしい。
その家族との別れ際に顧客から電話があり、夜半から北新地でご相伴する。
年末の金曜日の12時というのに、なんという客の多さ、盛り上がり。
誕生日だ、周年だと高いシャンパンがバカバカあいている。
みんなそんなに稼いでいるんだ。すごいなぁ。
かつては皆どんな差(性、身分、稼ぎ etc) も理解しない、できない、子供だった。
いつからか欲と偏見、自我とそのプライドにまみれた「大人」になる。
たとえ、「親」であっても。
図らずも知ってしまうのが、人の生。 親の意義は大きい。
自分の子といえど他人。
響きすら照れくさく自信もない私は、「親」には一生なれない / ならない。
ここ数年の視点、価値観、行動を子供らからあしらわれたようで、いい経験となった。