先日、東京出張時に時間があったので人形町から新橋まで歩いてみた。
日本橋~八重洲~銀座~有楽町~日比谷・・・
なんですの・・・このキラキラした街並みは。
もはや東京は異国や・・
田舎者にはついていけないので逃げるように朝イチの飛行機で帰るのだが、臨海のタワーマンションの乱立・・。過密すぎるやろ・・
が、そこに利便性がある以上、より快適さを人間は求める。まるで、単一宗教観にとらわれた中世の人間のように。
ルネサンス=なんとか回帰
が起こることはもはやないだろう。ハイセンス=感度高いっす!という名の単一万歳文化。おぇ。
あると便利は、無くても困らない。
んだけどね。「都会と田舎」を論じた時、
都会は疲れるし、田舎は飽きる。
という一言でも表することができる。
・都会の匿名性、消費に疲れるか
・田舎の実名性、無消費に飽きるか
結局はバランスの問題。全ては人間の感情が作り出す。今回訪れた島の町長が書いた、こちらの本を読んでみた。
たまに、町おこし本を読んで経営の参考にすることはある。キラキラ系は途中で読むのをやめることも多い。この本は飾ることなく、出自や地方自治の実態を書いておられ、最後まで読んだ。短いし。地方交付税と補助金をあてにした公共事業による先食い経営の限界を超える挑戦が記されていた。
無垢であるがゆえに、既成概念に染まりすぎる田舎。
虚飾であるがゆえに、にせイノベーションに走る都会。
どちらもどっちだ。誰しもが終末に向かっていることには変わりない。脱線するが、先日の「M-1グランプリ」、普段は見ないがつい見てしまった。近年の
・お笑い偏重
・好感度狙いタレントのお遊戯会
で、プログラムが成り立つのもさっぱり意味がわからない。たまにジムでTV放映を眺めるが、「これって誰が見て、何の得になるわけ?」という内容。もっと他に伝えるべきことがあるだろう。
メディアの本質が、権力と広告主の犬であることは
戦前の大本営発表鵜呑みスタイルから何ら変わりない。
・高度だが、非効率な日本語(オーヴァヘッドが多い)
・一様性、同調圧力(ムラ社会)
・ゆがんだ平等意識(階級社会、成功者を認めたがらないムード)
で構成される平和ボケの日本の現在が
・ガス抜きとしてのお笑い文化
・TVの向こう側にも味方がいるかも。
というニーズで独自発展したことは否めないだろう。が、
・庶民が、芸人やタレントに救いを求めるのは、
・サラリーマンが、ホステスに救いを求める
のと同様、見えない代償(時間、カネ)は大きい。
「笑い」「癒し」という搾取文化の頂点に立っている彼らの稼ぎは
・消費文化の「広告枠」
・同、接待交際費
を吸い上げ、
・視聴者も酔客も「客」
としか見ておらず、異常な値となる。
彼らが発する過剰リアクションとキレイゴトの裏には、ギャラ(現在、未来)という経済合理性が必ず動いている。
本来、視聴者なり被雇用者は自分たちの頭でも考え、発言、行動ができるはずなのに、他人とのアツレキを恐れ、空気を読み、横並び意識の結果、
巧く(うるさく)表現できるタレントに託す
ことでカタルシスを得る。私からするとTVやPOPミュージックなど、
・愛だの希望だのただ叫んでいるだけ
・当たり障りないコメントで、仕事(時間枠)を確実におさえる
としか思えない。他人のお笑い、感動の涙、ってそんなに大事?
今どきのタレントはソコソコな高学歴も多い。事実と科学で論ずるならまだいい。ないないコンプレックスのタレントが世間に受け入れられて売れ出すと、文化人、教養人を気取りだす。が、それに簡単になびく民衆がいるのも事実。
※が、こう思えるのは
・叫んでもどうにもならない。
・あちら側にはいない。
ことがわかっている「私自身の加齢」に依る。
本来、救いは自らの範囲の中に作り出し、自らの行動で示すべきである。
※M-1の優勝決定については
「そろそろ、こういう(ジャマにならない)純粋な若者を入れておこう」
という、既得権益側の作為、みせかけの懐の大きさを感じた。
※漫才という観点では 「和牛」の構成、話術が一番面白いのではないか。
他の、「取りに行ってる笑い」は見てて、聞いていて疲れる。
ともあれ、ほぼ誰であれ、必ず淀む。その淀みをどう化粧するかだけの話。キラキラとしたキレイゴトについていけない少数派をこの時代、社会は寛容するのだろうか。
つづく。