MENU

人が人を呼び、仕事が仕事を呼ぶ会社

Replog!大阪のITサービス会社Rep1代表のブログ

富貴一代 衣食三代

2024.12.30 カテゴリー: OFF・食

表題は中国の故事らしい。
 
飽食の時代と言われ幾十年。昨今はガストロノミーやらフーディーやら、当代総批評家となっているようだ。人間の味覚が発達するのは幼少期という。当然、幼児に食物収奪の能力はない。つまり、当人の親が与えていたもので一生の舌は決まる。
 
持論だが、いまの戦前/団塊の世代が有病率はどうあれ長生きで根本的に元気なのは、「食糧・環境難の幼少期であったこと。」「食料や調理もまだ原始的であり、間違いなくその栄養吸収能力は平成・令和とは異なっているはずであろうこと。」と考える。「やわらかく、不必要に甘く、脂っこく、加工食品しか食べていない世代」とは根本が違うのだ。我々は人間である前に、動物・生物である。必然的に、彼らが「本能で選んだモノ」を長年口に運んだ結果、世代間の先天的(軟弱世代の子供は弱くなる)・後天的な丈夫さは異なってくる。
 
社会が満たされ、人の「自己家畜化」が進めば顔つきも耐性も変わって当然である(家畜化による見た目の変化は「ロシアでのギンギツネの実験」が有名だ)。平和で金満の当世、鮨屋のカウンターに親と鎮座してたり、モンクレールのダウンを着ているガキを見ると「(他層を知らない)ろくな大人にならんぞ。」と思ってしまうが、庶民のひがみでしかない。誰もが老化していくわけだし、人間の味覚・嗅覚などあてにならんと言いたいが、食べていたモノ(つまり摂取栄養の種や量)で筋量や骨格も変わり、社会的な人生のトラック、価値観が変わるのは事実であろう。
 
連鎖社会によって生活困窮している層も大きい中、見て見ぬふりなのか、見えないのか、おそらく後者であろう。消費・美食顕示など実にあさましいことだ。王侯はともかく平民はコッソリ楽しむものだろうが、ソーシャルメディアがそれを許さずまさに「欲望への家畜化」となっている。
 
さて年末年始、これだけ流通が発達しているのになぜわざわざ高くてまずいおせち料理を買い求めるのかさっぱりわからない。恵方巻だチョコだも同じ理屈。なんの効用もないっつの。

ナマスやラベなどは、本当に誰でも簡単に作れ「時節柄 / おしゃれっぽい」というだけで巷の価格は暴利だろう。切って調味料やスパイスと揉んで絞る/混ぜるだけ。ポテトサラダもローストビーフも。自分の時間単価とのせめぎあいだろうが、自分の「ウマ!」は自分が一番よく知っているはずだ。
 
その「ウマ!」ってのは普遍で下記のどれかしかない。
 
1.生理(空腹、生存。)
2.帰属(家族、地域の味。日本人ならダシ。フレンチはソース。中華は香と上湯。etcetc)
3.報酬(努力、忍耐への対価)
4.情報(現代はこればかり。産地、生産者、作り方だの、言葉を食ってる。)
5.社会(いつ、誰と、どこで、何を食うか。)
 
愛する / した人のウマ!は5.であり、もはや「味覚ではなく感情」でしかない。
つまり、2以降は「生きていくための栄養」ではなく「食体験」つまり「エンターテインメントの一種」でしかない。
 
フランス人だかは
 
「生きるために食べるのではなく、食べるために生きる。」
「恋人とケンカをしたら、星(ミシュラン)を食べに行け。」
 
らしい。実際、パリのしゃれたレストランでかしこそうな中年カップルがテーブル上で始終手をつないでいて異文化を痛感した。一口食べてカトラリーを置き、何かしゃべって手をつなぐ。ほんとにその繰り返し。明日死ぬんか。
 
いつだったか、日本でもうどん屋でアニメアクセサリーだらけの若いカップルが手をつないでるのを見て国の将来にアンタンたる思いをした。ファストフード店でやれ。
 
翻って私もかつて、若くてかわゆい女に
 
「オジサンと食べる高級料理より好きな人と食べるマックのほうがおいしい。」
 
とテーブル向かいで言われ、コイツ・・けったろか。と思うことしばし。なお、料理の種類は工業性食品をのぞくと、、
 
1.宮廷、伝統(文化)
2.地域、家庭(記憶)
3.即席(ありあわせ)
 
の3種しかないはずだ。またのコースや懐石には、形式 / 起承転結がある。プロの料理人から聞いたことだが、
 
「全皿ハイライトは無意味。最初がすべて、あとは中締めとオーラスが大事」と。落語の”つかみ”と同じ。
 
京都・菊乃井 主人 村田氏の本を読むと、
 
・料理3割、サービス3割、空気4割。
・ルールの中で料理を作るのが懐石。
・うまいもん、という食べ物だけ並べるのは居酒屋。
・文化には縁のないカネだけは出すスタンプラリーをする”輩”。
 
と、三代目の矜持と重みに脱帽。とはいえ私は大阪の人間。京都には縁遠く、仲良くしたい、なりたいとも思わない。というか、”京都(地名からしてくどい)”というだけで水が合わない。田舎で生まれ、育ちの飲み食いがまったく違うので仕方がない。。
 
昨今はイノベーティブだのなんだの、茶懐石から発展したという美意識あふれる日本料理も、陰陽だ二十四節気だといちいち理由をつけるがそもそも中国発の故事、暦じゃないの?と。日本語 / 国民は例によって言葉遊びが好きで「造りだ、刺身だ。」などと言っても結局は「死んだ魚の生の肉」「cut of raw fish」であり、「恵みだ、幸だ。」「いただく」などソウルフルな過剰表現で背景にあるエトセトラをたしなむのが食の教養人らしい。食レポでよく見る、「作り手の世界観」「~させていただきました。」などはもはや宗教(=神秘体験)・狂信以外のなにものでもなくまるで理解できずに白けるしかないが、「いったことない。知らない。」のもしゃくなので、エンゲル係数は高くなる。
 
高級レストランなり、テーマパークが行く人にとって対価ではない何かを得れるのは、、
 
「見えない何かを楽しみにあがめにいっているから。」もしくは「それを他人に披露したいから。」
 
つまり「自分のイメージとの答え合わせ。」「目の前の食や酒より、自分に酔ってるだけ」だけだから現地で都度、そのイメージとの当たり外れのギャップに懊悩悶絶している。結婚はしようと思えば誰でもできるが「自分にふさわしい、他人のうらやむ結婚がしたい。」とヨコシマなことを考えていると、自分と婚期を永遠に見失う。なので、
 
「食ったメシと寝た異性はそこを出て3歩で忘れる。」
 
具合がよかろう。
#今時は素人にいったらどこでどう訴えられるかわからん。おーこわ。
 
この年になると、知らない人とカウンターで空間、時間を共にしてヘーヘーホーホーと聞くのも言うのもキッツいから、あれば個室をとることになる。とにかくにわかの日本料理や鮨は店が狭すぎる!価格には当然家賃も入っているが、たっかい内装費なりを回収せんとアカンからムダに高い。それを回収しながら白木だ器がどうだこうだと、加工賃だけにしちゃ高すぎる。ただ、ちゃんとした料理は技術研鑽料、有名税なので仕方がない。とはいえ小規模・個店がこれだけ幅を利かせるのは日本独特で民族性だろう。
 
またよく、憧れの人(シェフなりスタァなり)や皇族とかに対して
 
「後光がさしてた。」
 
という人がいるが、それは
 
「自分から発する敬意や畏怖の光が強すぎて相手で反射してるだけ。」
 
というマッチポンプ現象でしかない。大人こそは奇妙な受発光をせず、
 
「ネットでレシピ見ながら、自分で作ったメシが一番うまいよ。今回はアレでも、次はうまくできるよ。」
 
ということを年末に声を大にして言いたい。10年前も言ってた。しょせんメシか、されどメシか。この先、生産者も減っていく。平成美食の第一世代も鬼籍に入りだす。器などは骨董も値打ちの一つだが、今が隆盛の料理が三代続くってあるのかな?すべての当たり前が崩れる時がいつか来る。が、その儚さも含めてソレなんだろう。
 
食べたら終わり、死んだら終わり。それだけのこと。執着は後悔しか生みませんよ。

モチ入り小豆の砂糖とハチミツ煮。

プロフィール

株式会社レップワン
代表取締役 福田兼児

Profile

関連リンク

記事カテゴリー

月別アーカイブ

2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2006年