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Replog!大阪のITサービス会社Rep1代表のブログ

止められない、止まらない(1.8/2)

2023.08.19 カテゴリー: OFF・食

今回のメインの一つに「バチカン」があった。
 
39歳で相応の病を得るまで特に宗教や信仰にアレルギーは無かったが、今は「毛嫌い」している。ただ、文明人たるもの「嫌う」以上は一定に対象を理解、その理由を知らねばならない。数年前若い女性と食事に行った際、
 
「年末年始はどう過ごしたか?」
「平安神宮に参拝。」
「”神社”と”神宮”の違い知っとるけ?市民が為政者、権力のシンボルに願ってもなんも意味ないヨ。」
「・・・」
 
ということもあった。永遠にかみ合わない。もちろん、彼女や参拝客は信心ではなく、
 
 行事、一種の娯楽
 
であってそこに意味や背景を求めることはナンセンスだ。大人になって
 
「修学旅行、運動会、文化祭・・・結局なんだったわけ?与えられた機会での協調性、創造性って意味あるの?文部省、教育委員会の自己満足でしょ(末端の教職員らは負担が増えるだけ。)。費用は中抜きされてないのか?自分たちで稼いだ金でプランニングさせるとか、行きたい生徒だけで行きゃいいやん。」
 
と思う、思わない人の違いだろうか。我々は幼少時から同調圧力にもまれて育っている。この循環から脱出するのは並みの力では不可能だ。こちらの本が実に面白かった。
ふしぎなキリスト教

キリスト教は「対話」である。
 
で、
 
ユダヤ・イスラム:戒律
仏教:真理・法則
儒教:権威の理由
土着信仰:利益
 
であると。加えるなら、
 
神道:儀式・儀礼(教義・戒律がないから)
 
であろう。憲法で定義する天皇って「国民の象徴」らしいが、国民なのに「氏もない」「(たぶん)納税もしてない」etc ってどういうこと?
 
「天皇はKingじゃなくて、Emperorだからスゴイんだ。」
 
という説もある。が、帝国もないのになんでEmperor?King of Kings の Kingsって誰たちのこと?100歩ゆずって「国家行事の司祭」としての役割はいいだろう。だとしても自分らで稼げ。完全なる特権、身分制じゃないか。
 
「万世一系、慈しみが!」
 
当たり前やないかい。千年以上「労働」せずに生きながらえている家系やぞ。先進国で貧困層が増えてる国やのに、現人神で何もしなかったのに。時代と価値観、背景の技術がこれだけ変わっている時に「まんま維持」が本当に必要なのか?
 
この単純な矛盾に知ってか知らずか、愚者貧者に限って自らを搾取する権威にすがってしまうんだな。マルクスの言う、
 
宗教はアヘン(来世/現世救済願望による思考停止)。
 
ということ。とはいえ、
 
参拝より勉学
祝杯より節制
対立より理解
 
としたところで、そんなつまらんヤツは出世も当選もしないだろう。しょせん人間は欲まみれで俗、愚かな生き物なんだ。利する者同士が集まり、本質的に対立してしまうのだ。なので私は、「他人が何を信じようと知ったことではない」という前提で、
 
宗教に一切の因果関係はなく、俗が求める利益(権力、土地、資源、安心、歓心など)へのわかりやすい理由付け、便宜上の手段である。
 
と定義している。そもそも人間は不安や恐怖への耐性は低い。一番怖いのは人間だから。
  
ただウェーバーの「プロ倫」でも指摘されている「信心のひたむきさ」こそが、経済、科学や芸術文化を発展させたことは事実だろう。禁欲的求道的な人間にはまず勝てない。
 
そのあたり、「聖書」という組織や国家を超えた普遍のバックグラウンドがある民族・個人・地域と、統一性のないあれやこれやの訓話がはびこる社会で、属した組織や共同体に一体化してしまう滅私の日本人と行動原理は違って当然だ。そこにつけこむのが、儀礼、訓話、謝礼好きで戒律嫌いの日本の宗教。「御利益」やらを求めるさもしい参拝者にも問題大ありだが、宗教組織はすべての収益に対して税金払え、決算書公開せよ。話はそれからだ。
 
で・・・ローマ・バチカンだがさすが長く世界の中心だけあって世界中から観光客がいた。
クーポラより(朝1でいきましょう)

泉の状況

ローマを見渡せるレストランで夕食をとったが、首都にしてはとても暗い。その深いコントラストこそがその長い歴史を語っていると感じた。そしてその聖人像などの作品群は「おぉ・・今から千年以上前に・・・」だが、その背景
 
・聖書世界の可視化
・カトリックが宗教改革で押された時に捲土重来を狙って
 
などを知っていると、「権威付けのための聖職者の手段」であり
 
「この費用なぁ・・(王、貴族を含む信者から巻き上げたカネ)」
 
と思ってしまう。このブログでも周回遅れ日本を自認する必要性に再三ふれている。ムダな劣等感ではなく、事実、因果関係の認識が重要ということ。
 
・ローマ:キリスト教公認は313年、国教になったのは392年
・日本:1549年、イエズス会ザビエルによって。
 
らしい。イエズス会=カトリックの一つであり、宗教革命でプロテスタントに押されて外に活路を見出した(いわゆる大航海時代)。わけで西暦0から数えると、約1,600年の遅れ。よくもこういうにわか文化に染まって結婚式などあげれるものだ。神父と牧師の違い、カトリックとプロテスタントの特徴(教会、信者と聖書の立場)ぐらいは知っているのか?江戸・戦前に儒教が用いられたのは、権威の理由付けという為政者の手段でしかない。だから、分散的でくだらないルールばかり増え続ける国になる。また、
 
「布教したことがあるかないか」
 
は国の強弱、メンタリティに関わると言われる。もともとヤマト民族はバラバラなんだ。
 
欧米:個人主義 / 集団行動
日本:集団主義 / 個人行動
 
と言われる。その証左がこれだ。ASローマ vs ザルツブルグ。狂信者じゃないか。

 
もう、スポーツ観戦なぞ死ぬまでいかんぞ。数度の人力セキュリティチェック、シートでの葉巻、たばこ、ゴミのポイ捨て、指定席には座らない、通路にびっしり。移民であろう売り子への敬意のなさ、頭痛が・・・。始まって30分で通路に座り込むグループ席をゆずって出た。その後2分で立て続けにゴール。まさに地響きの歓声。その場にいなくて本当によかったと思う。日本では野球狂信者が多いようだが、結局それも占領軍からの3S(Sex、Screen、Sport)の”にわか”に過ぎない。戦中はストライクを「よし」とか言ってたらしいけど。
 
で、その「にわか最強国」がドバイだった。
 
つづく。

プロフィール

株式会社レップワン
代表取締役 福田兼児

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