日本人は宗教的にこだわりがない割に、雇用はあんまり流動化しない
新居にはオーブンが据え付けられている。
前の週末に、エビトリグラタンをつくってみた。
本を見ながら、ホワイトソースから作った。
意外と簡単だった。本を買いだめしたので、コツコツ読んでいく。
池上彰の宗教がわかれば世界が見える (文春新書)
日本人は無宗教だ、とよく言われる。
生まれたらお宮参りをし、
バレンタインを食らい、
クリスマスを祝い、
新年お参りをし、
結婚式は、教会とウェディングドレスにあこがれ、
死ぬときは、寺に頼む。
これらが成立するのは、それぞれのイベントについて、
「強い宗教色」を意識することが無いからだろう。
宗教というより、「ちょっと色の濃い、業者」というような感覚だろうか。
なんで離婚のときは宗教色が無いんだ?
それこそ、新たな人生の旅立ちだと思うが。
JRさんとか、(離)婚活ツアーでもすれば、
それなりに集客できるんではないだろうか。
「こちら1号車は、バツ1のみです。経験からの理解力があります。たぶん。」
「2号車には、2号経験者が乗っております。耐え忍び、気立てよしです。」
・・・
「食堂車もご用意しました。えり好みしない方は、ブッフェスタイルでどうぞ。」
「パノラマシートは、多国籍シートとなっております。
・・・
「グリーン車、サルーンには、年収-千万円以上の、エグゼクティブしか乗って
おりません。特別料金がかかります。」
と。ありえないか。
ザ・少子化
の原因には、出会いの少なさがあるわけで、ツリショを乗車券代わりに、
「婚活新幹線。愛ある未来へGO。
東京で乗って、名古屋で出会って、大阪で恋をして、博多で式を挙げた。」
など、いいと思うんだが。新婚旅行も取り込めるし。
話は変わるが、以前会合の中で、韓国と日本の違いを聴いた。
===
韓国には、天災がほとんど無い。
災害は人災がほとんどであるからして、「人が原因」。
ヒトがらみ、恨みの文化が生まれやすい。
日本では、天災が多い。つまり、人を恨んでも仕方がない。
ヒトとは和するべき。自然を尊び、「無常の文化」が生まれる。
===
日本人は、
極東でポツンと平和に繁栄してきたからこそなしえる文化を創ってきた。
「八百万の神とか、なんでも祭ってみたり。」
「宗教も、たくさん作っちゃえ、認めちゃえ。」
わかる気がする。日本では、そこいらじゅうに神様がいる。
これが外国なら、神もしくは類のアイコンは、
キリスト教やイスラム教など、かなり出自が限られるのではないか。
地続きの国同士であれば、いつ隣が攻めてくるかわからない。
そこでは強力な一つの
「イデオロギー、アイデンティティのための宗教」
「統治のための、レトリックとしての宗教」
が必要なんだろう。
ジンベイザメ。あー旅、行きたい。
さて、私は宗教については、肯定も否定もしないが、
「関わりたくない」とは強く思う。
先人の知恵、学問、物語としては面白いと思う。
が、儀礼による拘束時間が多すぎる。
解釈が、それぞれ手前味噌すぎる。
政党と同じようなもんだ。私がよく思うこととして、
チープな起業家と、新興宗教の宗主は似ている。
どっちも山師。もちろん私も前者の一人かもしれない。
言葉巧みに人心を操る。前述を読み替えればいい。
「イデオロギー、アイデンティティのための会社」
「統治のための、レトリックとしての会社」
こわ。
私が会社運営で意識するのが、
宗教的な盲信集団にはしたくない。
ということだ。だから「辞めるのは、どうぞ自由」と言っている。
会社でも宗教でも、
「みんなの正義」
なんてあるわけない。そんなの誰かの都合だ。疑ってかかれ。
自己否定ができなくなったら、終わり。
宗教は自己否定ができない。たいがい、根拠のないむちゃな話なのに。
また、現在当社が掲げている、
「よりよく生きる」
がウサーン臭い。
2012年2月にたまたま思いついた文章なのだが、あぁ、ウサン臭い。
上記本で、池上さんは
「よりよく死ぬとは、よりよく生きることでもあります。」
と書いてあり、結構びっくりした。いっしょやん。
しかも私のほうが遅い。また、ベネッセさんの企業理念も
「よく生きる」
である。
それを見た瞬間に、「変えなアカンわ」と判断したが、まだ代案が思いつかない。
たまに、「福田教め。」とか言われる。が、
「ビジネスの当たり前」
を言っているだけで、それ以上の押し付けはしていない。と、思う。
宗教も会社も、集団化によって利益を求める。
集うことによって、共通の目的を感じる集団ができる。
「真理がないことが真理」
であることは、これだけ宗教が乱立していることを見ればわかるのに、群れる。
帰属欲求。安心するからだろう。
求人活動は、折伏。
セールス活動は、布教。
利益からのピンハネは、お布施。
賃金は、福音。
見せてくれるのは、極楽浄土か。
会社、社会、家庭というハコが安心できないとなると、
帰属を他に求めるのは当然かもしれない。
戒律嫌いで、儀礼好きの日本人
上記本にも
「戒律嫌いの、儀礼好きな日本人。」
とあった。まさにその通りだと思う。
先日、祖母が亡くなった。
祖母方は「天理教」らしく、どえらく長い儀礼に付き合わされた。
しかも2日に分けて行われた。
「オイオイ!
どんだけおがんでも泣いても死人はよみがえってこんがな。
何言っているかさっぱりわからんし。
行ったり来たりしているあんたら、誰やねん。」
と、居眠りをしそうになった。
確かに、故人にはとても恩義がある。が、宗教に全く恩義はない。
しきたりはわかるが、今後はちょっと付き合えないね。
親族の近況を知っても、あまり意味ないし。
結婚式も同じ。前回の友人へ式の参列を最後に
「結婚式、披露宴は、死ぬまで二度と行かない。」
と決めている。もちろん自分がすることもない。
前回の参列も非常に逡巡した。
もちろん、祝う気持ちはある。幸せになってほしい。が、
「は?
結婚の足元を見る、ビジネスモデルが意味不明。
祝うのになんでそんなにカネがかかるねん。
拘束時間も長い。長すぎる。
その宣誓はホンマか?絶対ウソやと思う。
で、なんで泣くねん。お前まで泣くな!!」
また、国内最大手の証券会社に勤める知人の結婚式に出たときは、
「新郎新婦の上司同士が、スピーチでライバル宣言」
という恐ろしい光景を目にした。あんたら、ゲスト違うのか。
と。さすが、”ムラ社会”。怖いわ。
確かに、個別に祝ってもらったり、偲んでもらうのでは手間が毎度かかる。
だから、式にて一気に集まってもらおう、やってしまおう、というのもわかる。
私が帰属する集団に、幸せ、悲しみおすそ分け。
まとまらなくなったので、
長ったらしい儀礼は、ムダ。
と、切り捨てたい。
儀礼は、長ったらしいからこそ、うやうやしく、価値がありそうなわけだが。
昨今は、
「PC上ではない、現実の、本当のつながり」
が少なくなったのは事実。また、現在の現実社会の住人がそれを求めていないのは事実。
ただそれは、以前とは違う環境、教育の結果である。
本でも述べていたが、
「既成宗教のがんばり」
寺や神社など、儀礼や観光だけではない、
身近なコミュニティや教育の場としての活用。
は必要なのだと思う。
もっとも、私は行かないが。
神?仏?尊敬はするが、頼れる、行うのは自分のみである。