メランコリックな風景
無事、講演を終え金沢から帰阪した。
列車からの風景からは、日本の原風景のような美しい田んぼ、瓦ぶきの日本家屋がたくさん見えた。遠くには両白山地の連峰が雪化粧をしている。
郷愁、感傷的というか、メランコリックというか。
なぜ、こんなに列車は居心地が悪いのか。
風景を楽しむのはよい。そこに映る家屋にそれぞれの家族の生活があり、現実がある。車窓では「横」をみる。その、「現実」に長く座らされ、見せられることが、違和感を禁じ得ないのだろう。
たぶん私は、家族というユニットへの意識が希薄で、適切な距離感がわからないままこの年になっているからだろう。
車なら、「前」を見ていないと危ない。
飛行機なら、離陸した瞬間から、
「あ、都市が小さくなっていく」
と、「(眼)下」を見る。
そこにある人も生活も感じなくなる。雲の上には誰もいない。現実世界は見えない。束の間の、シャバ外がある。
もちろん、キャビン内はシャバである。ヒエラルキーもあるが、外地についてしまえば、
「知ってるひと、道、なーい。」
となる。
美田を失うこと
講演については、担当教授から「ちょっと高度だ」と言われた。
内容について、再度考えた。
「学生は、失った経験がまだまだ少ない。」
ということに気付いた。
我々は仕事や日常生活を通して常に、何かを選択して、何かを失っている。
選ぶということは、他方を捨てるということだ。
トレードオフの関係。
オカネ、経験、家族、を得る代わり、必ず何かを失っている。
時間は必ず失う。
何もかも得る、などはできない。
学生は、まだまだ「得る」ことの割合がおおいのだ。失ったことなど、しれている。
「失うこと」
を学んだ時、知った時こそ、人は一皮むけるのではないかと思う。
帰りの電車で、美田をボゥと見ながら、
「子孫に美田を残すな。教育を残せ。」
と考えていた。
みんなが選ぼうとする既にある美田より、
みんなが選ばない小さな野山に、あなたに合う価値はあるかもしれませんよ。
ということを伝えたかった。