「メリトクラシー」とは能力主義のこと。
モノ・コト、考え方の鉄則として
・その反対側はなんだろうか?を同時に考える。カウンターを知る。
つまり、両極を知る、考えることが大事だ。
「帝国主義はイカンです。じゃあ、その逆は何だろうか。」
と知る、考えるから、バランスができるのではないだろうか。
#なお、資本主義も帝国の軍事力がカネに置き換わっただけのことだと思う。
行動の際は、 中庸のリスク を考えること。どっちつかずの判断、行動は結果を生まない。
#政策が極端に両サイドに振れながら前に進む国もある。
日本はあれもこれも。でも、だから、いいような、悪いような。
そういう中庸性が政治への無関心を生むのではないだろうか。
それがこの国の民の歴史なのだ。
会社もそうで、
総じて民主的=社員多=量=大企業
総じて能力的=社員少=質=士業やコンサル会社
となろう。
前者は労働者を多く抱え規模で戦い、後者は能力や資格で勝負する。つまり、「そもそものルール」が違う。
ただ、前者も後者も昔とは条件が異なってきているのは事実。
そこで・・・今までの、「メンバー型採用」への逆サイドの提案として「ジョブ型採用」のページを作っている。
要は、
今までは通じた愚かな二重基準はやめましょう。それぞれのメリットを知り、実行しましょう
ということ。さて、この現代社会は、
関わりすぎ。、期待しすぎ。
である。
SNSなど「ITテクノロジーによる共有」によって正負両方の側面ががもたらされた。
今までは公使で分かれていた部分に、壁がなくなった。私の切り売りだ。
知れる、ということと
知りすぎる、ということ。
誰が死んだ、あれがどうだ、こうだと、モニタの向こうの有名人の話題。芸能界の住人のくだらん内輪のお遊戯会は本質的に、視聴者の人生に1mmも関係がない。
#関係があると思っちゃう人は「自意識過剰」で、「お得意様」だ。
平和を享楽するのもいいだろう。が、もう少し死生観を磨くといい。我々は、一日一日死に向かって生きている。
マスクをしようがしまいが、死ぬやつは死ぬ。
戦争で緒戦で死ぬ人間、最後まで生き残る人間に理由はない。ただ、前線の死亡率はとにかく高いというだけ。
愚かな国民は、安全な中央とメディアに踊らされた前線と変わりない。
銃後射撃を受けていることに気づかず、前線で味方同士で罵り合うとメディアは喜ぶ。
なぜこういう空気になってしまうのか。
後方支援という名でほくそえむ役人の支配原理、
「民をして依らしむべし。知らしむべからず。」
かっこうの餌食ではないか。パラダイムシフト(世代交代)はまだまだ先。「昔はよかった」もいいだろう。個人の価値観が行動原理を作り、その行動の固まりが時代を作る。
環境や条件が変化する前の「昔はよかった」という感傷は理解できる。
が、周囲が変わっちゃう以上、自分がそのままでは淘汰されるのは自明。
いつの世も結局、人間は不平不満の生き物なんだろう。一つだけ確かなのは、
答えは自分の中だけに。
ということだけ。だからこそ、個人の品格を磨かねばならない。
それは相対化のアイコンであるブランドや飽食ではなく、「他人に流されない自立」だ。
また、それを他人に押し付けないのが「品」だ。
実は、この格付け社会から隔絶するための逃避地がある。それは、銭湯だ。
人は「時が止まった空間」に郷愁と安らぎを感じるのだろう。ちなみに、
オトコは裸になった時にウソはつけない。
浮気を疑ったら一緒にフロに入って聞けばいい。
黒ならうろたえる。
は、処世に長けた論理的で乙女なゲイ友人の知見。
現代人はもう少し、ココロがハダカの付き合いでいいんじゃないですかね。
#裸体というわけではない。
そしたら身にまとうブランド品、愚かさなデザインに気づくでしょ。
もろもろ昨今のデザインは好戦的すぎる。
アンタ(私も)、モンゴロイド&日本人だよ。
中年・老年って基本、醜悪だよね。根本的、絶望的に似合わないよ。
そんなに気合注入してどうするの。疲れるじゃない。
奪い合えば足りない。分け合えば余る。
はずだが。