一方のロマン、他方のガマン
とあるジュエラーにて、
「お誕生日ですか?」
と店員さんに言われたので、
「特に。罰ゲームみたいなもんですね。」
と言ったら、
「宝石は女性にとってのロマンですけど、男にはガマンですよね。」
と。
「男性にとっては300kmのスポーツカーはロマンですが、女性にとってはガマンですから。お互い様です。」
セールストークの引き出しというか、同情というか。
妙な納得感で店を出た。
先日、スタッフの1名が
「自分がいなくても、この仕事がまわるのではないか。」
「自分の存在価値はどこにあるのか。承認欲求なのか。」
という悩みを抱いていることを知った。私の回答として、
・休んじゃえば?
→ 仕事より大事なことがあるさぁ。
・当社が大事にすることを守る、スタッフ全てを信じますよ。
→ 想いの共有さぁ。
と伝えた。
伊良部大橋を自転車でわたってきたさぁ。ずっと曇りだったさぁ。
しょせん仕事じゃないか。
さて、「自分しかできない仕事」というのはこの世に存在しない。
世紀の大発明だとしても、多少歩みが遅くなっても、似たように、同じように、まわっていく。
まして、その他大勢の人の価値などしれている。
かつて、文豪マーク・トゥエインが
「誰かが蒸気機関を発明しなくても、他の誰かが発明する。」
というたぐいの文を書いていたはずで、幼少時に衝撃を受けた記憶がある。
「マーク・トウェイン 名言」で検索。
彼のトムソーヤがなくても、世界には、十五少年漂流記も、ハリーポッターが生まれただろう。形を変えて。
連綿と続く時代の中、自分のできることなどしれている。
そこでふてくされてしまっては先も無いので、ちょっと引いてモノゴトを見てみる。
視野が広がるだろう。
では、視点を高くするには。視線を合わせるには。
終了があるから、誕生がある。
企業や人間が不死であれば、バランスが成り立たない。
遅れたが、株式譲渡の書類作成は終わった。あとは譲受者との調整だけだ。
宝石にしても、仕事にしても、会社にしても、他人が喜んでくれればそれでいいじゃないか。
ちっぽけな自我による、Push型の主張や証明が全盛の時代。
Push におっくうな人間は生きずらい。
ゆるりと傍観して、マイペースにやることをやっていけばいい。
と思う。