なんとなく・・
いつごろからか毎年(2008年、2009年、2011年のログがある)大阪天満宮の戎祭に行くようになっている。
理由として、まさに「なんとなく」だ。大阪天満宮は
・事務所から近い
・人が多くない。
である。
「学問の神様」が商売繁盛の祝詞ねぇ。まさに、
バイト
じゃないか。
「大阪天満宮」は、「天神祭」「学業成就」で儲けているのではないか?
神様も「学問だけじゃ喰うていけん。」のか?神様も宗教法人であり、ある程度は商売でやっているのだ。2011年の天神祭参加のログにて、コメントあり。
また天満宮の近所には、それこそ本家の堀川戎神社があり、ちょっと遠慮しながら、細々と催しているところも健気でいい。
下記の食事の後に、「服部」にも行った。ここにも「天神」があり、また「戎祭」だった。まったくオイオイ・・な人通りだった。不景気や停滞ムードだと、まさに神頼みなのか。
これはこの神様、これはこれ、それはそれ、と日本の宗教観は都合がいい。
「餅は餅屋」もいいが私は
「神頼みの効果など、ない。」
と断言したい。「なんとかなるだろう」の典型である。
私が小学生の時、中学受験の際に、神戸のとある天満宮に親に連れられて行った。
子供ゴコロに、そのお参り中から
「不合格の自信200%」
だったが、予想通り、不合格だった。
大学受験は、それなりに自信があったので、神頼みしなくても合格した。
私の卒業大学の入試テスト結果に関しては、「国語」と「社会」で合格点に達しているはずだ。「英語」は当時からNG。
それが、事実だ。
さて、最近の年末年始は、10年来のビジネスパートナーと、同じ店でスシを食べている。
ところが、去年も同様に残り福後に訪ねた際、
買った笹を、そのスシ店に忘れる。
となった。いつか取りに行こうと思っていたが
「まぁいいや。繁盛してる?」
「おかげさまで、してるっす。助かります。」
みたいな感じで店に再訪しても置いておき、以下フローの取り決めとなった。
1.新しい笹を、1/11の日に買う。
2.もちろん、値切る。
3.そのまま、スシ屋にいって、スシ食べる。
4.新旧を交換する。
5.古いものを天満宮に返しに行く。
証拠に撮っておく。
信心と、商売について
「えぇ!?笹、値切るの?」
と、たまに言われるが、
「なんで?最終日だとさらに安くなるよ。」
である。昔は
買う者、売る者の口上が見せ所。
値切った分(+アルファ)をご祝儀として、
買った店においていく。というのが粋。
ということもあった。今の都市生活者にそんな人情沙汰はない。
天満宮で笹を買うのは、別になじみの出店でもない。
おそらく商店街の人か、氏子さんがハッピを着ているのだろう。
「これなんぼ? まけて。なんかつけて。」
実際、ウソみたいな値段がついている。単なる笹、ザルやん。
そこからの利益で、駆り出された方々のバイト代と、少なくなった寄進を賄う。
帰りはどこにも寄っちゃいかん。福が逃げるから。
という類もあるが、100%迷信であろう。なんの科学的根拠もない。
「笹もって商売繁盛」ならだれも苦労しない。
なお、「科学」とは、
100回実行したら、100回同じ結果が返ってくること。
と私は定義している。こういうと
福田は、信心が無い
とも言われそうだが、
「どこの神に対しても、まったくない。
が、信じている人がいる以上は、地域、信仰のしきたりには従うべきだ。
顧客と従業者にだけは、信心を持つ。」
である。私が早世しようとも事故事件に巻き込まれようとも、
「バチがあたった。」などでは200%ない。
と言い切っておこう。
事実、私の弟など100%マジメ一徹、潔癖、神にも祈っていたようだが、病でさっさと亡くなった。
信心、過信、慢心、運、などは別の軸である。
「あいつは信心が無い」
と言われる人間の、
・過信
・慢心
は一つの傾向であるが、「万人の事実」ではない。混同はいかん。
そりゃ、宗教という集団行動から発生する利益もあるだろう。
私は、神への信心がない分、過信しないよう、慢心しないよう、戒めていかないといけない。
が、もちろん、なんとなくな、お参りはする。
神への依頼というより、自分自身に言い聞かせる類のものかもしれない。
が!
いきがっている私も、
「毎年買っているから、これで済んでいるのかもしれないな。」
という「とらわれ」が、「凡人」をさいなんでいる。
かといって事務所に、笹やら七福神などがいるのは、美観上もよくない。矛盾する。
戎さんは
商売=笑売のアイコン
としてはよい。が、枯れた笹が置いてあっても、
商売、神頼みっス
みたいで苦手だ。であるので、上記スシ屋も絡んだフローは自分の、
「なんとなく」
も解消でき、
「他人のため」
にもなってよろしい。この、
「なんとなく買っておこう、行っておこう」
こそまさに、ナントカ商法のカモである。で、買い手の必要性というか、惰性というか、打算の足元を見られたプライシングを飲むことになる。
プライシング(値付け)とは。
つまり、
買い手が存在する、値段をつけること。
である。
買い手の最大化こそが、営業努力であったりマーケティングなわけだ。そして、
「値付けが一番肝」
であることは事実だ。
つまり、買う人がいれば、同じモノであっても、いくらでもいいわけである。
「なんでこれが、5,000円なの?」
だとしたら
「買う人(その値段でほしい人)がいるから」
ということだけである。
スシ屋の勘定も、
・時価
・伝票は一応あるのだが、明細はあってないようなもの
である。明細を細かくチェックするのは、無粋なのだろう。
そういう信心深さであったり、潔さ、人智を超えたものに謙虚になること、が大事なのかもしれない。
古来より、この狭い日本で肩寄せ合って生きる民族が、集ってハレとして祝い、定期的に穢れを削ぎ、戒めを再認識し、将来を祈る必要な儀式だったのだろう。
結局、経済(オカネのめぐり合わせ)も感情人情が作るのだろう。
が、最近は文明によって、対面的な接触はそがれ、ディスプレイ上の定量的なデータがまんべんなく提供され、違う感情の増幅増殖を加速させているようだ。
そういう感情を考えた時、
学問の神様が、友達である戎さんを自分のところで紹介、祭ってもつまらない。
と感じるのは私だけだろうか。
ここはひとつ、
学問の神様だからこそが作れる、アカデミックな商売の神。
たとえばいまどきな
EBISU with MBA
とかをつくってはどうか。もとい、MBAが集まってもつぶれる会社は、つぶれる。
利益に対する、人的コスト、プライドが高すぎるからだろう。
が、この案も言ってはみたものの、
「人が集まる気がしない。儲かるとは思えない。」
つまり、
商売は、学問では語れない。
そもそも、「語る」モノではない。
というのが、10年経営をした私の感想である。
とはいえ、来年も大阪天満宮に行くのであろう。
「あのスシ屋のために」という言い訳と共に。